2013年1月31日木曜日

正論貫き、造り酒屋変革―枡一市村酒造場のセーラ・カミングス氏


 異端者のリーダーが「伝える力」を発揮し、組織を大きく変えることがある。枡一市村酒造場の代表、セーラ・マリ・カミングス(44)もそんな1人だ。1994年に長野県小布施町に移り住み、廃業しかかっていた造り酒屋を再生。どんな抵抗にあっても「正論」を説き続け、保守的な山あいの町を年間120万人が訪れる観光地に変えた。(1面参照)
 「マラソン大会は中止」。2010年、セーラが代表を兼務する企画会社に、町の医療部からこんな通達が届いた。毎年7月に開く「小布施見にマラソン」の応募者が8千人を上回る規模に拡大し、参加者が熱中症になるのを懸念した町がストップをかけた。
 セーラのもとで働いていた村石忍(39)は時期をずらすかどうか迷った。だが、セーラはよどみない日本語でいつもの言葉を繰り返した。「7月開催には意味があります。小布施や近隣の町の住民は農家が多い。田畑の仕事が忙しい春や秋は参加できないでしょう」
 小布施見にマラソンは「皆が楽しみながら町の経済を動かすイベントをつくろう」という趣旨で始めた。時期をずらせば地元の人たちは選手としてもスタッフとしても参加しにくくなる。目的をぼかしてはいけない。
 ではどうするか。村石が困った顔をしていると、「熱中症が起きない仕組みにしましょう。給水所を増やしましょう」。できない理由よりも、まずやれる手段を考えるのがセーラ流だ。町の会合に顔を出し、ひまわりのような笑顔で思いを語り、給水所設置のために必要なボランティアになってほしいと訴えた。結局、給水所は7割増の35カ所に増え、町の医療部も開催を認めた。
◆「ヒント与える先駆者」
 村石はセーラを「ヒントを与えてくれる先駆者」と形容する。セーラはまるで詩(うた)のようにやわらかな語り口で正論を何度も何度も繰り返す。そして実現のために自ら最初に動き、手本を見せる。その姿が村石のようなフォロワー(追随者)を生む。
 セーラのリーダーとしての基礎は枡一市村酒造場で築かれた。留学生として大阪に住んだセーラは一度米国に戻った後、長野で就職した。そのときの知人に造り酒屋を仕切っていた市村次夫(64)を紹介された。
 当時、市村は酒造場の将来像を描けずに迷っていた。二百数十年続く酒蔵ながら、売り上げの大半はビールなどの仕入れ品。「手を入れてダメならいっそ辞めるか」。そんな雰囲気を察したセーラは市村に意見した。「なぜここでしかできないこと、ここにしかないものを自らなくすのよ」
 セーラにとって造り酒屋は日本の貴い伝統だった。小布施の町に外国人を呼び込む力になる。「誰かが何とかしなければ」。これが正論を語り続けて人を動かすセーラ流の出発点になった。
 再建策の一環で浮上した酒蔵のレストランへの改装では「レトルトでごまかすのはおかしい」と指摘。厨房(ちゅうぼう)をしつらえ、内装にもこだわろうと、香港に住む米国人建築家のもとへ飛んだ。木おけで仕込む酒の復活も提案した。
◆よそ者の立場から意見
 保守的な造り酒屋で、何にでも口を出すセーラを良く思う人はあまりいなかった。しばらくは自分で提案し、作業も自分でこなした。「よそ者だから意見しやすいこともある。迎合する必要はない」。異文化の人間だという割り切りがセーラに正論を貫かせた。
 信念の強さに、頑固な職人たちも心を打たれた。最後に市村が「彼女に任せてみよう」と話し、セーラ主導の改革が本格始動する。木おけ仕込みの復活でセーラに最も協力したのは、若き日の経験を覚えていた大とうじの遠山隆吉(86)だ。やがて商品力が高まり、売上高に占める自社製品の比率は改革前の1割から8割に増えた。
 枡一市村酒造場から車を30分ほど走らせた集落。セーラは今、ここで農業・限界集落の再生事業に取り組んでいる。「ここに自然と共生するコミュニティーが復活します」。雪景色のなかにあったのは半壊した家屋だが、セーラには将来の姿が見えている。
 実際の修復作業をするのは建築やデザインを学ぶ若者たち。「農村風景、田園風景はここにしかないもの。だから守り育てていく」。セーラが示す夢と目的の実現を目指し全国から若者が集まってくる。セーラは「私が小布施にきてもうすぐ20年。次の20年につなげなければいけない」と話す。次の世代を育てるためにこれからも正論を説き続ける。

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